| 仁誠会クリニックながみね夜間透析 竹中英和 |
私は昭和56年10月21日に熊本赤十字病院において透析を導入しました。以来、早くも30年が経過しようとしています。「仁誠会30年史」投稿にあたり、導入時の記憶をもとに、昔年の思い出をつたない文字で思いのままに綴ることにします。
昭和56年9月30日、熊本日赤病院へ入院。33歳の秋であった。主治医は早野先生(男性)。この入院は、当日の検査結果からの緊急入院であった。
実は、その数年前からタンパク尿が出ており、体調は春先頃から徐々に悪くなり始めていたため、6月始頃自宅近くの「ある病院」に腎臓病の検査のため受診をした。2日間いろんな検査が行われた。結果、「腎臓は大したことは無いが注意するように」とのことで、暑くなり始めの頃だったので「夏バテ」か・・・と思いこんでいた。
しかし、秋風が吹き始める頃になっても体調回復の兆しは見られず、益々ひどくなるばかりで、9月30日に意を決して熊本日赤病院へ受診した次第である。
10月7日15:00~17:00にシャント作成。奇しくも長女が誕生したのもシャント作成と同日・同時刻であった。手術室から出ると同時に長女誕生の知らせが舞い込んだ。 こんな体の私に子供を与えられたことに対して喜び、感謝した。反面、「これから働くことが出来るのだろうか」これからの生活をどうすれば支えることができるのか気をもんだのも事実である。早いものでその娘も今年10月には30歳を迎える。 |
シャントは作ったものの、透析導入を拒否し続けたため(透析を始めると一生透析という恐怖があった)、21日(月)血液検査に来院することを条件に10月19日(土)退院した。予定通りに10月21日午前通院、血液採取後帰宅。同日午後日赤より自宅へ緊急電話。「すぐに病院へ来て透析を行いなさい。さもなくば今夜の命は保証しない」という内容のものであった。
これまで透析導入は拒否し続けていたが、命あっての物種、10月21日の夕刻に3時間透析を受けた。透析室でのスタッフの会話。
「あの人のクレアチニンは24だと。びっくりするね」。その時は何のことだかわからなかったが、今考えるとまさに危機一髪であった。そういえば、自宅で立ち上がった瞬間に気を失ったのもその日であった。3日間連続して通院透析を行った。
透析後の食事の旨さ、それまではほとんど喉を通らなかった食事が通るようになった。
「助かった」と思ったのも事実である。
しかし、当時は、透析患者の余命は5年といわれていた時代である。長女は生まれたが、私の余命は5年と考える時、子供のそして妻の将来を考えると、絶望の淵に立たされ、人目を避けて涙したことを覚えている。
しかし、妻は母になると強いものであると言うことに後で気がついた。二人の子供が小学生になると仕事に就いた。
本来、私はネアカで、よその病院ではどんな診断が下されるのだろうかとの思いが浮かび、弟の紹介で熊本中央病院福井先生に受診した。「如何しがたく」との診立て。そこで観念し、妻も出産直後で実家に帰省していたため、即日熊本中央病院に入院した。
しかし、日赤に受診中であったため、図々しくも福井先生に転院の手続きをお願いした。現在で言うと「セカンドオピニオン」になるのか、私は30年前に「主治医に無断で」それを実行したことになる。
翌日から中央病院での入院透析が始まったわけだが、びっくりしたことが2点あった。
1点は、穿刺するとき、日赤では局所麻酔後穿刺していたが、ここではいきなり麻酔なしで16ゲージの針を刺されたことである。最初の穿刺は現あけぼのクリニックの松下先生(当時熊大)だったと思うが、ブスッと刺しながら、また、その瞬間私が顔をしかめたのを見ながら、「早く痛みに慣れんとね」と言われた言葉を、今でもその痛さと共に懐かしく記憶している。穿刺時に針先を見つめる習慣があるのはその時からである。
第2点は、透析室に早野先生(女性)がおられたこと。転院のいきさつなど世間話をした数日後に、日赤早野先生の奥様であることを知り、赤面したものであった。今、この日の無礼を考えると、早野先生には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。
12月末に中央病院を退院。退院と同時に妻子も里から帰り、狭い我が家での生活が始まった。翌年1月は中央病院へ通院透析。昭和57年2月から夜間透析で黒髪クリニックにお世話になっている。福井先生から田尻先生への紹介状を持参した。同時に仕事も再開し現在まで続いている。当時は月から土の毎日夜間透析が行われており、仕事のやりくりも非常に楽だったことを記憶している。
その後、昭和59年1月には次女も誕生した。その娘に今年5月、男の子供が誕生し、私は「ジジィ」となった。可愛いものである。今は同居中である。やはり家庭は賑やかなほうがいい。私の透析年齢と同じ年齢の長女にも11月には子供が誕生する予定である。願わくば女の子であってほしい。いや、五体満足ならどちらでもよいと思うのがジジィの本音である。体調もすこぶるとまではいかないが、63歳の年相応であると思っており、自分的には幸せな家庭を築いていると思っている。
| 当時5年といわれていた透析寿命。子供の成長を見定めることを半ば諦めかけていた自分が30年前の彼方にはいた。しかし、今では娘たちの結婚、そして、孫の顔まで見ることができている自分がいる。透析5年めを過ぎたころからいつの間にか体調も安定して、「まだしばらくは戦える」といった自信に似たものが芽生えてきたのを覚えている。その思いが今に繋がっている。 |
最後になりましたが、田添院長先生をはじめとした病院スタッフの皆さんの献身的な取り組みが私の透析30年という長い透析寿命を支えていることを改めて思い描くとき、深甚なる感謝の念に堪えません。また、透析医療の進歩のために、社会保障・医療費制度の充実のために日々努力されてきた腎友会の皆さんの活動には、心からの敬意を表します。
これからは、身の丈のほどの生活に心がけ、一年一年を見据え、生きる目的を見失わず、家族とともに自分に与えられた生活を全う出来ればと願っています。
![]() | ≪スタッフより≫ 竹中さんは、導入時のシャントオペ1回のみで、シャントをつぶすこともなく、これといった大きな病気もなさらず、30年という長い透析ライフを送られています。 これも、シャント管理はもとより、水分・食事など全ての管理において 模範となるような自己管理の賜物と、頭の下がる思いです。 一言で自己管理といっても、それを継続するには、ご本人の強い意志とご努力、そしてご家族のご協力がなければできないと思いますが、ご本人はそんなつらさはおくびにも出さず、いつも、温かく穏やかに私たちスタッフに接していただいています。 これからも、他の患者さんの目標となられるよう、ますます元気で素敵な透析ライフを楽しんでいただきたいと思います。 私たちも精一杯お手伝いさせていただきます。 |





