2009年2月アーカイブ

 今回は、Yさんにインタビューをしました。 

      Q1.当院に通院されて何年ですか?
               8ヶ月

      Q2.大津第一クリニックのイメージは?
             とてもいいです。スタッフも「優しくて、親切」 本当にうれしいし、大好きです。

     Q3.透析を経験してどうでしょうか?
               透析をしてよかったと思うし、助かっている。
       以前までは、透析後きついのを我慢  し ていた。
       血圧が低くて家に帰っても、何もしたくなかった。
       血圧が低いのをナースに相談したら、アドバイスしてもらって今は食欲もでてきた
       し、血圧も安定してきて元気になった。
       相談してよかったと思った。これからも、何かあったら相談したいと思う。

  Q4.Yさんの趣味を教えてください
      ・読書が好きです。(読むことがすき)
       最近読書はしなくなったが、新聞は毎日読んでいます。
      ・編み物が大好きです。
       100枚ぐらい編んで子供や孫、嫁などにやったりしていた。
       透析を始めてからは、編み物もきついのでしていない。
       また、出来る時に編み物をしたい。

  Q5.大津第一クリニックにメッセージをどうぞ!!
      完璧なんで、満足をしています
      嫌々ながらじゃなくて、みんなに会うのが楽しみです。
      来るのが楽しみになっています。
      これからも宜しくお願いします。

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私の透析ライフ

2009年02月 3日
 
ootu3.jpgのサムネール画像のサムネール画像 たまたまここのHPを目に留める機会があり、その話をした流れで投稿する機会をいただきました(^-^;)

私自身はまだ、透析を始めて3年ちょっとの新米です。意外だなと感じていたのは、いろんな患者さんの手記など、見ていると透析導入前と直後に悩まれた方が多いのだなと思ったことですね
   
普通は、透析をしなければいけないという状況は、かなりショックを受けるものだなと・・・・

私はあっさりと受け入れてしまったので、親はあきれていましたね(;一_一)

透析を続けるうえでやはり、困ったなと思ったのは食事ですね。食べ歩きも好きでしたし、栄養学をかじっていたこともあり、透析食の載った本を見ていても、実行するには無理があるし、必要な栄養バランスが偏ったり、それを補おうとすると、摂らない方がいい栄養がオーバーしてしまうジレンマがおきてしまう(-“-)

そんな中で、食事から栄養素をとることはあきらめました(^◇^)現在では、六大栄養素の内、三栄養素と細胞活性のためのサプリメントを摂っています。体調も安定し、転院時に服用していた7種類の薬も今では2種類に減りました。特に血圧降下剤を飲まなくてよくなったのが一番うれしいですね(^=^)そうすることで、食事は最低限のバランスとタンパク質、塩分の量だけを気にすれば、透析食に縛られない生活を送っています(^0^)/

私自身は移植を希望していません。なので、この先10年20年とこの体と付き合っていく為には、現在の体調をキープし続けるのに、私にとってサプリメントは欠かせないものです。ちゃんとした知識と情報があれば、からだにいいものです。健康維持のために一考されるのもいいかもしれないですね。

最後に、大津第一クリニックに通えて幸せにかんじております(*^-^*)ネットを覗いてみると結構とんでもない病院があるなか、最初にこちらにめぐり合えたのはとても幸福なことだと思っています。

先生はやさしいですし、スタッフさんはよく気が利くし、年下なのにタメ口をきくフレンドリーな技師さんはいるし・・・
これからも長い付き合いになると思いますのでよろしくお願いいたします (^◇^)

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穿刺に対する"思い"

2009年02月 3日
ootu2.jpgのサムネール画像 透析が開始されたころは、人工腎臓による透析治療は延命が目的でした。

しかし、医学の進歩により、透析治療は単なる延命のみならず、社会復帰を目的として社会に十分貢献できる治療法に変わってきました。
そんな中で、私も「順調」に闘病生活を送ることができました。

もちろん、私が「生」を支えることができたのは、法による医療と福祉の保障と多くの方々の援助があったからです。個人的には、必ずしも自己管理ができる「良い患者」ではありませんでしたが、先生やスタッフのみなさんのおかげで、23年間生きることができました。
しかし、身体に障害が出てくると、いよいよいけません。先生や管理栄養士さんの「見捨てない」指導のお陰で、最近は、自分で食事をつくりながら、少しは食事の管理ができるようになりつつあります。

そんな中で変わらないのが、穿刺のときの痛みです。確かに「ユーパッチ」などの鎮痛剤を使うようになって、ずいぶん痛みが緩和されましたが、それでも「新鮮な痛み」を感じるときがあります。

  また、働いているときは、鎮痛剤を貼るのを良く忘れました。仕事を終え病院に駆けつけ、着替えているときにそれに気が付いたときは、もう「絶望感」が襲ってきます。気を取り直して、覚悟を決めます。穿刺したときの「新鮮な痛み」に耐えます。そんなことがあると、しばらくは貼ることを忘れませんが、また忙しさの中で忘れます・・・。

痛みは個人差が大きいと聞きますので、「絶望感」などを感じたことがない人もいるでしょう。そんな人は幸せですね。私は穿刺が済むと、透析が半分は終わった感じになります。
また、スタッフが悪いのではありませんが、「相性」というのもあるのでしょうかね。

いよいよ穿刺というとき、こちらの覚悟ができる前に、穿刺が終わってしまう場合があります。フェイントみたいなもので、痛みがなくて拍子抜けすることもあります。その逆に、突然痛みが襲ってくることもあります。

 一方、穿刺に慎重なスタッフもいます。覚悟を決めて、「いよいよ来るかな」と待っていても、なかなか来ない時があります。そして、ちょっと気を抜いたときに来たりします。息を合わせるというか、なかなかタイミングのとりかたが難しい場合もあります。

 「痛いかもしれない」と思っていた方が、同じ痛さでも我慢しやすいものです。「痛くないかも」などと思っていて痛かったりすると、その痛みは倍増されます。
また、タイミングが良いというか、相性が良いというか、そんな場合は、痛くても「こんなものだ」と納得?できます

 スタッフも、穿刺には気を使っておられることと思います。こちらも、「痛くても表情に出したらいかん」と思いつつ、つい出てしまうことがあります。そんなとき、「すみません」と言われると、こちらも「すみません」と思ってしまいます。

 また、穿刺にデビューしたばかりのスタッフの場合も、患者さんには微妙な心理がはたらきます。正直に言って「大丈夫かな」という印象ですね。

 そんなとき、先輩のスタッフが付いて指導している姿をみると、すこしホッとしますし、うまく穿刺ができれば信頼感にもつながります。新人さんの成長に期待しつつ、あせらず見守りたいものだと思います。

 とにかく、シャントが太い人、細いひと、状態がいい人、トラブルをかかえている人・・によっても、穿刺に対する受けとめ方が微妙に違ってくると思います。このように、穿刺には患者の微妙な心理がはたらくようです。
あえて誤解を恐れないで言えば、「たかが穿刺、されど穿刺」・・・といったところでしょうか。

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透析20年を振り返って

2009年02月 3日
この度、腎友会の20年の賞を頂き感謝とお礼の気持ちで、これまでの人生の経過を述べさせて頂きます。 
私は昭和62年の1月なかばに病気になり、日赤に入院してシャントを作りました。そういう中でその時は透析する気になれず、無理やり自宅に帰りました。その時の主治医から「貴男はこのまま退院すれば、一月ももたない」と言われても「はい、わかりました」と言っただけでした。

その当時は我が家と家族と家畜が何よりの楽しみでした。妻から「病院に行ってください!」と涙ながらに言われた事を今も思い浮べ、わがままな自分であったと思います。その後、日赤に定期的に通院し、農業をする喜びを妻と共にかみしめておりました。

その年の7月頃から だんだん歩けない状態になり、主治医から言われた食事制限は気をつけながらも、不安な気持ちになりました。知人の紹介で透析をされている方の体験を聞きながら、もう一度田畑や牧場・山林に行けるならばという気持ちになり、これまでの人の話も聞けず、わがままだった自分を反省しました。

8月遂に病院に来るよう言われ、その時はもう舌がじんじんして感覚がありませんでした。先生やスタッフの方々が迎えに来られ、「だいぶ 悪いなあ」と言われた事は覚えています。4時間の透析後、妻の「もう終わったよー」の声で目を覚ますと、自分の体ではないような感覚でした。翌朝のご飯の美味しさ、少しのワカメの美味しさを一生忘れる事は出来ません。            

透析を3〜4回するうちに少しずつ元気も出て来ました。先生にも「もう十年は生きさせてください」とお願いしながら、先生やスタッフの皆さんの言葉を自分なりに守ろうと思い、9月には退院になりました。透析をよく知らない人からの、いやな言葉も聞こえて来ましたが、私は逆にそれを力にして働く喜びを取り戻しました。家族みんなからの援助もあり、透析を辛いと思うことはありません。

今は、黒髪内科(今の熊本第一クリニック)から大津第一クリニックに移り透析をしています。まだまだご迷惑を掛けながらですが、20年間の透析生活の中に、唯々健康で元気でありたいと思う一心であります。

下村先生はじめ皆様の教えを守りながらいけば、これからの人生も幸せでいけると思います。今後とも宜しくお願い致します。最後に妻に対して「本当にありがとう」という気持ちでいっぱいです。

現在、5ヘクタールの田と30頭の牛を、妻と2人で営んでおります。

                           (大津第一クリニック 高木照一様)


私の透析生活20年

2009年02月 3日
 44才の誕生日の2日後に透析が始まりました。そして20年という長き生命を透析医療によって与えていただきました。当時、私は「明日」という日を待てぬと言うくらい、暗く、不安の中にいました。なぜなら、病いはいつもいつも死へ近づく病状でした。いよいよ頭の中がグチヤ々になり、私はどうなっているのか、ボーッと虚ろな眠りの中にいる時、遠くで「今日から、透析にはいりますよー。いいですねー。」と声が聞こえ、私は「はーい」と答えました。

でも、この先私はどうなるのだろう、1日おきの透析を忘れやしないか、長い間にヤケをおこすのではないか、他の病院はどうなるの?・・・次々と新たな不安が湧くのでした。

しかし、透析を重ねる毎に、体調は上向きになり、案外自由な身体を感じはじめます。「貴女は、週3回排尿の為だけに病院へ来るのです。病人ではありません」と田尻宗誠先生に言われ、「そうなんだ!私は普通に生きれるのだ!」単純に、素直に、すんなり透析医療を受け入れられました。 
ootu1.jpgのサムネール画像勇気が湧いてきて、根っから遊び好きな私は、まず旅行を体験します。1泊、次は2泊3日、次はもっともっとという具合に、病み付きになってしまいました。また、運動に水泳を、手根菅症を防ぐためにピアノをと、夢中にやっている内に、20年の歳月はアッという間に過ぎました。その間幸いなことに大病もなく、ここまで来ることが出来ましょたが、それは一重に先生方をはじめスタッフの、誠心誠意の見守りがあったからこそです。

透析をうけるようになっていつも思うことがあります。それは、日本が平和であり、安定しているからこそで、医療界のめざましい発展があればこそです。多くの皆様に助けられて、ここまで生きてこれました。日々感謝です。
20年の長き透析生活は、私の性格をも除々に変えてくれました。せっかちなところはのんびりと、激しいところは穏やかに、心に重荷を感じても「まーいいか、透析が終わってから考えよう」と、間を置くことも覚えました。これは家族にとっては不平ですが、我、感せずです。
この先、神のみぞ知るところですが、今までのようにマイペースで歩むだけでしょう。

ただひとつ、私は小さな挑戦を持っています。それは60歳後半、70歳と今までは手根菅症を防ぐ為と思って来ましたが、これからはボケ防止に?、自分を楽しむ為にピアノを弾き続けることです。老婆がピアノに向かい、ゆっくりポロン、ポロンと音を出している姿は、なんと素敵だろうと思うのです。壊れたレコードのように、繰返し繰返し好きな曲を弾く。そんな老いた自分を描き、フフフ・ ・ ・ サアーレッスン!レッスン! 
                                                                                           (透析患者:S・T様)

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